2014年6月29日日曜日

再エネへの違和感

昨夜「農山漁村再生可能エネルギー法を使った地域活性化を考える」第一回地域検討会議に参加。

牽引するのは、米づくりをさせてもらっている棚田のオーナー嶋野さん。
棚田の再生だけでなく、地域にある資源(モノ、ヒト)を活かした持続可能性のある地域活性化に向けて考え実行されている。すごいな。

必要な専門家と、専門家ではない人間の関わり方、
専門家ではないけれど必要されている人物像が各地の先例をもとに挙げられていた。この点も流石。
地元住民、行政、地元林業の方達の参加もあり、
生活圏内でこういう動きが生まれることは嬉しい。

しかし、再エネ活用=FITの活用であってはならないと考えるし、
それ以前に作ることよりも減らすことが重要であると思う。
3.11以降、日本に沸いた再エネブームへの違和感は、
企業先導で地方にメガソーラーを建ててしまうものと、
地域住民が主体となってそこにある資源を自分たちの暮らしに活用しようとしているものを
ごちゃまぜにして同一のものとして見てしまっていたところにありそう。
「市民発電所とは?」を考えたい。

自分の暮らしだと、
現在テレビ、エアコン、冷蔵庫は家にないし、電子レンジは使ってない。
なので常に電気を消費している家電がない。
何らかの方法で発電すれば事足りるのではないかと思う。
売電には興味がないし、余剰電力であったとしても売電を目的とするべきではないと思うので必要最小限の設備で済む。
売電の欲を出すと、「もっと多く」という数量的価値観が頭をだす。そうするとエコと称したゴミが増えるばかり。
家庭用充電池への補助金があれば助かるな。

あとは、今在る熱の有効利用を考えたい。

2014年6月21日土曜日

チームしが

7/13に投票がおこなわれる滋賀県知事選挙に出馬される三日月大造さんと応援団長の現知事である嘉田由起子さんがゲストとして招かれ、
出馬にかける想いと、これまでとこれからの県政について語られた。

草の根の自治の大切さ。
政治に無関心、おまかせではなく、一人一人が参画する県政へ。
これからの日本社会において目指すべき方向だと思う。
今後もこれまでの大量生産、大量消費、ヒトも物も使い捨てで、記号が尊ばれる価値観であったなら、
戦後70年なにやってたの?がさらに伸びてしまう。

おたがいさま、持続可能な社会、シェア、手仕事を手に取り戻す、
といった最近復活しつつあるように見える価値観を大切にする滋賀県にしたい。
大きな声によって押さえ込まれていたものが、インターネットの普及で可視化されただけかもしれないけど、
同じように中央集権型の社会から分散型の社会へと移っていくことを望む。

それは、手放してしまったものを手に取り戻すことにつながると思う。
暮らしの中の技術や、その技術に基づいた考え。それをおこなう自身の思考力。

作物を育てれば、自然は分け合うことを教えてくれる。
欲深く独り占めしたところで手に余るだけだから。そのことを身をもって教えてくれる。
何もかも買って済ませていたものも、足元に目を配ればそこに予め在ることを知る。
雑草と称して除草剤で見た目に綺麗にしていた草は、大半が薬草であったりして、
季節ごとの必要な栄養分を与えてくれる。
これはヒトから見た視点だから、ああそうかとなるけれど、
ヒトは自然の一部なのだからと当たり前のことから考えると至極当然。

在るモノを活かしてきた人間の智慧。
そこにある謙虚さ。
シェアなんて概念は本来新しくもなんでもなく、昔から続いてきた人間の智慧そのものが知の共有ではないか。

チームしがの言う「草の根の自治」とは、
ヒトの智慧の復活ではないかと個人的に解釈した。
(ちなみに真逆の方向性が自民党)

三日月さんは民主党衆議院議員を辞めて無所属での立候補。
○○党推薦、といったようなやり方ではないところにも共感を抱く。

しかし、お話しを聞いていて県政においてもジェンダーバランスの尊重、早期解決は必死であると感じた。
また、各地で作られつつある「障害のある人もない人も暮らしやすい地域条例」についてうかがったところ、
「県議会議員の過半数が自民であり、そういった類のことをやろうとしたりすると大反対を受けた」とも。(うろ覚えのざっと書き)
当事者団体のこれからの運動にも関係してくることだと思った。
新県知事が自民推薦の者になったら、滋賀で上記条例を作ることは増々困難になる。

三日月さんと嘉田さんによるタウンミーティングは今後も続くので県民の方はぜひ自分の耳で聞きに行ってほしいと思う。
そして疑問点はその場で投げかけてほしい。

まだ聞きたいことや話したいことがある。

柏原でも同様のお話し会を開けないかなあ。

2014年6月1日日曜日

遠くに見えたあるがままの境地。


遠出の際に、いい機会だからとインターネットから離れて本を持ち歩くようになった。
今回は、野口三千三 野口体操からだに貞く、シュタイナー教育、トモ藤田 ギター教則本の三冊をお伴にし、
からだに貞くを読了した。

体操と言っても健康本ではなく、野口さんの言う体操とは
「からだとコトバの裏(なか)に潜りこんで、自然の原理と人類の智慧を探検する営み」
裏(なか)とは、野口さん流の分析で「心・内・底・奥・基盤・土台・本質・真実・根源」の意。
このように文字をヤマトコトバや甲骨文字といった古代文字で分析する理由は、
この段階の文字を調べればある程度本当の人間のものに対する感じ方、表現の仕方がつかめる気がするからだそう。
面白いなーと思う。
ずっと前から読みたいと思っていた白川静さんを読む時期がきた。
子どもの名前も浮かぶかもなー。

卵の立つはなしは、「卵が立つ原理こそ、人間の立ち方の本質を示しているんじゃないでしょうか」と始まり、
「今まさに自分がやろうとしていること、そのこと、その場面に一番ふさわしいあり方をすることが立つということ。
どんなつまらないものと思えるものでも、必ずなにか自然の原理を教えてくれます。
要は、自分の向かい合い方であり、聴く耳を持つこと」
と、田口ランディさんや佐伯さんが虜になっている「石立て」と通ずるものがありました。

「人間というものは弱いもんだから、ごまかしのきく理屈は信じない方がいい。
ごまかしのきかないところで考えていかないと、知らないうちにウソの理論を構築してしまうおそれがある」
なるほど覚えておこうと思った。

体操とは占である、という野口さん。
貞の甲骨文から、「貞は神に対する「問・聴」の行為。占の世界が人と神(自然)との関係の「貞」の行為で、甲骨文が人と神との関係の文字であり、私の体操が意識としての自分と、神としての「からだ・自然」との関係によって成立するものなので、
「からだに貞く」ということになる。」

「からだの動きのよしあしを、からだの外形、映像、測定器の記録、他人との競争などによって判断していると、基準というものはいつも自分の外側にあって、自分はそれを絶対のものとしてそれに服従し、規制され管理されるようになってしまう。
自分の意識、理性、知性で自分のあり方を判断していると、いつの間にか脳が専制君主となり、
からだは脳の奴隷となり、常に脳によって命令管理され、結果的にからだは、緊張・努力の量を増すこと、苦しみに耐えて頑張ることによって、
問題を解決しようとする傾向をもってしまう。そして人間は努力さえすれば何でもできるのだという、意識しない人間の傲慢さの虜となってしまう。
自分とは問いかけをするだけの存在で、あとはすべて「自然の神にお任せする」問いかけだけが自分のやることのすべてだから、このことに命をかける」