2012年12月17日月曜日

大人


今まで通り今まで以上にやっていくだけ。

選挙が露呈させた結果に落胆して半日も経つと変わるものだ。
それが悪い方向へ行くと、見て見ぬ振りのなし崩し的判断という鈍化へ向かうのだろうけど。

以下、昨日途中まで書いていたこと。

生命の軽視。
ポレポレ東中野で映画「ラブ沖縄」を見ながら思ったこと。
三里塚に上関に福島に沖縄…いつまでこんなことが繰り返されるのか。

大きな声を使って恣意的に小さな声を黙殺する。
どこかで見たことある光景ばかり。

対話を拒絶し、圧力で押し通す。
その力学を成立させなくする作用がインターネット、ネットメディア、SNSにはあると思い希望を抱いていた。
ただの仲良しごっこではないものとしてそれらを見ていた。ジャスミン革命とはそういうことだったはずだと。

選挙前に喧伝される自民圧勝はプロパガンダのまま沈むことを期待していた。今この時期の選挙の投票率が低いなんてこ憶測と、いくらなんでもないだろうと信じようと努めた。

信じたくなかったものが全部現実となり、疑問とやり切れなさを感じながらの帰宅途中、電車内で母親に連れられた幼い子供を見た。
好奇心いっぱいの眼差しで車内をきょろきょろと見渡すその姿に、
大人はどう映っているだろう。
自分はどう映っているだろうと思うと、
何を選挙の結果くらいで暗澹たる想いになっているんだと、
子供の姿を見て大人としてあるべき姿でいなければならない自覚を取り戻した。

東日本大震災後からよく見聞きする「子供たちのために」という言葉は、「嘘」だろうと思う。責任転嫁、責任の所在の押し付けだと。
福祉を語る時に使われがちな「人のために」という言葉くらい嘘くさい。
子供のために、
ではなく、
多くの選択肢がある社会を引き渡す努力を行うことは、ただ単に大人としての責務だではないか。

国と個人が向き合うのではなく、その中間に位置するものがある社会。
社会関係資本とも呼ばれるようなもの。
市民運動、人が集う場、様々なソーシャルアソシエイション。
それらの分厚さと、ネットメディアの相互作用。
現在はロバート パットナムがいた19世紀とは違い、インターネットがあることの有利さを活用しない手はない。

ポレポレの前に行った脱原発世界会議でのISEP古谷氏の発言「地域でのエネルギー自給を進めていくにあたってまず何よりも必要なのが人と場」という言葉を思い出す。
これは何も自然エネルギーに限ったことではなく、成熟した社会への一条件。
だからこそ自然エネルギーの普及に大きな可能性を見出し期待している。
ネットメディア、市民メディアの現実を嘆いていても仕方ない。
トップダウンの力学を骨抜きにする基本は人と人との繋がりだろう。
この選挙結果を経て市民運動の草の根の繋がりが強固されるはずだし、それらの繋がりの中に居れるようでありたい。やることやれることは多い。

子供を見て、大人を思い出した。

今でこそ一票の重さを感じ取れる。
「投票したところで何も変わらない」と見聞きするが、そんなこと当然だろう。変えるのは自分の小さな一歩。
ハリウッドのヒーロー的展開なんて望んでいない。
デモ行進や投票で一変するなんて思っているほど能天気ではない。

投票率は成熟した民主主義のバロメーター。
どこまで対話することが可能で、排除の力が働いていないかどうかのメタ認知になり得ると考える。

投票率において「20,30代の低さ」を嘆くのは当然だけれど、
イジメ問題と同じく社会の姿の正常な反映だとも思う。皮肉なことに。
現象を点で見ても仕方ない。真っ直ぐ並べていると思っていた机が、気づけば曲がっていた。そういうことだろう。
福島原発事故後にとった指導者側の姿やそれを取り巻く大人たちの姿を子供達は見ていた。
福島だけではない歴史の中で繰り返される生命の軽視から子供達はしっかり学んでいるとも言える。

投票しないことで、「諦めている」「世の中に反発している」という安直な意思表示。我が身を振り返るとこの憶測はあながち外れてはいないように思う。
何かと「自己責任」が使われる社会において、自己責任を全うしようと、ただ稼ぐ為に働くことと、その状況に向かって最短距離を求めた結果にも見える。
夢を叶える為。国際協力の仕事につくため、アーティストとして身を立てられるようになるため、自分探し。選挙どころではない。と。

大人が作った社会への順応。
だからと言ってそれが投票しなくても良い理由にはならない。

年上を責めず、年下を責めず、
責任の所在追求やイデオロギーの対立に興じていても進歩はなく、
自分がやれることを考えると、やるべきことは普遍的で単純なことだった。

次号の風の旅人にはその解の一つがあるように思う。

引用
「   コドモノクニ
時代がどんなに変わろうとも変わることのない子供らしさというものがある。そして、その普遍の子供らしさというのは、誰しもが持っていたもの。だから、そういう子供の姿を見ると、自分が重なってしまう。おそらく、300年前だって子供達は同じだったかもしれない。変わっていくのは大人の世界。そして、大人の影響を受けている子供の世界。大人の影響から離れ、子供が子供として存在する時、そこに昔も今も変わらないものが見える。だから私たちは、時々、子供を見つめる必要がある。目の前の現実よりも大切な何かが、ずっと昔から今に至るまで受け継がれていることを知るために。さらにその大切なものを、後の時代へと受け継いでいくために・・・。」
 http://www.kazetabi.jp/復刊第2号-6月1日発行-予告/

まだ「修羅」も読みきれておらず把握できていないが、
佐伯氏の見つめる深さに尊敬の念を抱きます。