決め台詞の下、
見るべき今、ここ、に意識を置きたくても、
次へ次へと追い立てられる。
作業が潤滑に進むように、ラインの先を意識するようなもの。
儀式は意味をなくした形だけの作業になっている。
形骸化された儀式それが今の社会風潮
見るべきは、目の前で病院のベッドに横たわり病魔と闘う父
見るとは、ただなんとなくではなく、意識してこそ。
意識を次へ次へと押し出されるその場所は、
機械的な流れを円滑に進めるためのタスクポイント。
「そうは言っても、こういうもんだから」
魔法の決め台詞が聞こえたら、
気づけばシステムを効率よく進めて行くためのラインに乗せられてしまっていた。
学校、会社、結婚式、葬式、
「そうは言っても、こういうもんだから」と、見るべきものを後ろ手に隠される
薪を作って火をおこしお湯を沸かす。
始めは燃えやすいものから、だんだんと、急がず慌てず、
ある程度燃えだしたら、そう簡単に消えることはない。
哲学、思想は生活と密着していなければ嘘ではないか?と思う。
日々のしなくては生きていけないところから生まれ出たものではないだろうか。
水場を見つける。井戸を掘る。水を汲む。
焚き木を拾う。薪を割る。火を付ける。火を消さないようにする。
現代人が効率化の為にお金で済ませてしまうところをやらずして、
学問として触れ合う哲学、思想に何の意味があるのか。
過去の先人の想いの半分も理解できないだろう
理解できたと思ったら歪曲しているのがオチか。
大地ではなく、システムの上に立っている。
学生の時に勉強と呼んでいたものはいったいなんだ。
夜が明け始め、呼吸を続ける父
昨日よりも熱は下がり、呼吸も安定した
主治医の宣告はありがたく外れ、次は肺炎も回復に向うよう祈るのみ
マッサージをし、他動運動を行い、身体のアイデンティティを保つ
祈り行う今、ここ
必死のことで現実にぶら下がる
ぶら下がり続けられるよう、しっかり目を見開きたいもの