2013年3月29日金曜日

伝統の森ですごした時間

言葉を思い出す。

「歴史には教科書に載る歴史と載らない歴史がある」
これらの話を聞いている時にウィキリークスの特異性を感じた。
教科書に載らない歴史の存在を認識することは重要だと思う。それは、教科書に載る歴史、目に見える歴史、歴史と呼ばれる前のメディアに取り沙汰される日々の社会の動きに一喜一憂して転がらないために。
「最近の大学生は教科書に載る歴史さえ知らない」とおっしゃっていたのを聞いて耳が痛かったです…

カンボジアから帰国し日常に戻ると、
新聞で得られる情報からは広さも深さも感じなくなっていた。むしろ感じたのは狭さ。
新聞に非があるというよりも、記事になる情報に愛想を尽かしている。こと政治に関しては茶番にしか見えず読む時間が惜しい。

何のための情報か。
「社会の動向を知るため」「視野を広めるため」
世間で見聞きするこの言葉はただのセールストークに聞こえる。それには理由がある。
カンボジアで人と触れ合い人の持つ力を感じた。自身が情報の中で生きる人ではなく、人の中で生きる人だと、人は人の中でしか生きられないを体験したのだろう。
人と会うことは、自分の足で得た情報となる。
人と会うことが出来るのには制限がある。それは悲しむことではなく、身の丈とよべる。
自分の目が届く範囲。空想ではないそれ以上に何を求めるのか。
新聞の購読を止めることと、社会に無関心になることは同一ではない。

情報を得る手段が他に出来たことも一因だがそれは本質とは違う。
何より、伝統の森で出会った人々から教わった大切なこと。
感謝し、自分の歩幅で今を精一杯生きる。
それを誠実に一歩一歩進めて行くことが大事ではないか。
それはつまるところ自身が人生の主体であることの認識。
以前読んだ本で「自己無価値観」という言葉が使われていた。それは言い換えると人生の主体になれていないんだと思う。
森の人々は見る限り人生の主体である
「自身がやりたいことをやる」村の方針と繋がっているようだ

ぼくが伝統の森の人たちから学んだことが反応として続けばそれはサブシステムになりえる。
人生の主体「点」として動き、それへの反応が起き、面となった時にはそこにサブシステムが出来ている
森本さんのサブシステム概念を聞いている時浮かんだのは、
斜めの動き、オルタナティブ。
今は19世紀と違い、それらを補完する道具「インターネット」がある。
恵まれている。
社会関係資本を唱えたロバートパットナムやトクヴィル、現代に生きる目上の方々の知恵に謙虚に耳を傾けたい。

「現代日本は混迷を極めた大変な時代と言われるが、ぼくには絶好の好機に見える」
そのようなことをおっしゃっていた。
情報に踊らされることなく生き抜いておられる森本さんらしい視点。
爽快。
力強く心強い。共有したい言葉。

尋ねたら森本さんはどんな本を勧めてくるだろう?と思いながら話を聞いていると、自ずと出てきた。それが宮本常一
初耳だった。興味深い著書多数。少しずつ読み進めたい

IKTTの織り機は、妻のために夫が自作したものだそうです。
なんと素晴らしく、自然であることか。

地方の過疎化、疲弊の現状を活性化するとすればどのように?との問いには、
そもそもの情報自体が正当ではない。と
地方にこそ必ず宝がある、というような返事でした。
村の集会で数十人と集まってもこのような力強い声は出なかった。真摯に耳を傾けたい

俯瞰することの重要性も語っていただいた。
佐伯剛さんもおっしゃっていたことだ。
体験の中から得ていくものなのだろうと漠然と思う

そう言えば宗教のことについても言及があった。
日本人は「自分は無宗教だ」と言う人がいるが、そうではないと。
盆、正月、節分、儀式、八百万の神、生活の中に入り込んでいると。
ぼくは何教だろうか。何に祈る。
自然、八百万の神であれば神道になるのか、アニミズムとなるのか、この辺りのことを少しずつ調べたい

森本さんには、
やれば良いんだ、動けば良いんだ、点で良いんだ
と背中を押された気分。引っ張られた感じ
森本さんの生命力に身体が呼応した。
氏のように大人として道を示してくれる大人は少ない
驚くほど少ない
足を引っ張ろうとする大人は多い。そういう風に生きてきたから仕方ない。

感じたこと、学んだことを、
「あ~良かった」で済ませることなく活かしていく