長老に会ってきました。
京都3F PROJECT ROOMでおこなわれた「かぜたび編集長佐伯剛氏と写真家北義昭氏のトークイベント」
佐伯さん、相変わらず面白く生命力に溢れ強烈な個性。
何かを語られるにしても、表層と積層だけでなく生命原理にまでおよぶ思索の旅。
脳みそを揺さぶられました。
対峙すると得られるほどよい緊張感。身体が反応している
二次元でも四次元でもない超ひものような世界が言葉で紡がれ、聞きたいこと知りたいことは沢山あるはずなのに、
質問すること自体がどうにも枝葉末節に思えてしまう。
感じて動けば良いと。
ふだん夢なんて見ないし憶えてないのに、その夜は夢にまで佐伯さんが出てくる始末。
泊めてもらった姉家族の家から帰宅すると極度の眠気と未体験の長時間金縛り。
日本にも長老という存在がコミュニティにいた時代があったと思うが、
恐らく似たようなことを肌で感じていたのだろうなあ。
問答無用の差というか。
現代社会で言う「長」とは異質。存在も選出方法も、そう思う。
頭で決める平等や不平等なんかではない生命体としての明らかな差異から必然的に決まる立ち位置。
地元に来ていただけるのは嬉しい限りだけど、受け皿となる「場」は一体どうすれば良いのか。
鹿を囲い込む檻どころではない。
家に転がっていた雪駄が傷んできたので草鞋を作ろうと思っているのだけど、それを一緒にやってもらえないだろうか。
草鞋は靴の技術が無かったから生まれたのではなく、自然と向き合う生活の中の知恵から生まれたもののはずで、そこには地域性や人と人との暮らしの関わりがあるはず。
人と自然の関わりがあって、編む際にはおしゃべりしながらといった人と人との関わり合いがあったと思う。
現在ワークショップで意図的に作られる「場」が、普遍的なものとして存在していたのではないか。
草鞋作りを通して「場」を語っていただく?
場所は麦の家で、草鞋の指導は山崎氏(草鞋作りがお出来になれば)。
まず始めに両者からそれぞれの場について語っていただく。
山崎さんから麦の家のこと、
佐伯さんからは風の旅人のこと、
そして草鞋をしながら生命の本質について語ってもらおか。。
うーむ、要熟考。
イベントの前は、以前から行きたかった河井寛次郎記念館へ。
よくある資料館のようなものを想像していたので、
登り釜もある窯場が邸内にあることに驚きました。
建物、景色、小道具、建具、仕事道具どこをどう切り取っても素晴らしく美しかった。
その後に街中でみる「アート」と称されるものとは一線を画し、
氾濫するえせアートの汚さが際立った。それはトークイベントの会場に展示されていたものもしかり。
河井寛次郎さんが作り出した「場」と佐伯さんが醸し出し作り出す「場」、
その二つに五感が震える一日でした。
それができたのは姉家族の協力のお陰です。感謝
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