2013年4月4日木曜日

読まれることを意識していないものが読まれることの意味

興味深いメールが転送されてきた
書かれていた内容は勿論のこと、
自分が感じたことを他者に伝えることは大きな意味があることなんだと改めて思うことのできる得るものの多いメール。

転送された人は、まさか見ず知らずの第三者に読まれているとは思っていない。
本来ならプライバシーの侵害、個人情報流出だと、転送した人に憤慨するだろうが、おそらくならない。
「あぁ、あの人らしい。」で終わる。

そんな魅力ある「あの人」とその友人との文通には、
自分が行い体験し、得て、感じたことが記されてあった。
バックグラウンドが自分と同じ、もしくはそれ以上の田舎社会なので目を見開き拝読。

興味深い記述の一つが、
「農業政策と農山村政策は違う。農業や林業の支援ではなく、そこで暮らすことそのものを支援しないと人がいなくなる。」
そう、政策は面でないと、と思う。

最後の結びは二年間の学びから実践への志が書いてあった。
「私がこれからこの地でやるべきことは、山間の人たちの受け継いできた文化を今の時代で失わせないことではないかと思います」

伝統の森を作られた森本さんの言葉を思い出した。
重要な仕事を見つけられたのだと思う。

感じたことを他者に伝えることには大きな意味がある。
表現することの大切さをこのメールを通して思う。
この方と同じ二年間の学びの場に出席することは難しい。
だけどそこに出席しなくても、こういった感想を聞くだけで共有できるものがある。
その人の心の震えが伝わってくる。
それは心地よく、また今度は自分自身が震えを発する側になれば良い相乗効果が生まれるはず。

四月に入り新聞の購読をやめた。
記事になる情報、世の動きがこれまで以上に茶番に思えてきたからだ。それ以前にそもそも自分の足と手と目と耳で得られるもので十分。「範囲」は狭まるが「深さ」は精進次第で増すことができる。
両手で持ちきれないほどの情報はいらない。
社会を知るのと、情報を収集することは似て異なるもの。

この転送メールと、新聞が扱う「情報」の位置づけは異なる。

大切なのは結果ではなく過程。過程の連続。
意味があるかないかではなく、結果ありき答えありきの動機ではなく、
表現し続けること、他者に向けて伝えようとし続けること。
第三者にも読んでもらえてなおかつ感動してもらう為に書くのではなく、発し続けた先に呼応があった。
結果ではない、し続けること